中央気象台の技師で、1943年5月に陸軍登戸研究所の嘱託職員となった荒川秀俊は、日本列島の地上風と大石が求めた上層風を重ね合わせ、さらに海洋上の気温の特性を考慮して、北太平洋上で風船爆弾が移動する経路を予想する作業に取りかかった。苦労の末に荒川は、爆弾を装着した風船が太平洋を横断するためには30~100時間を要すると予測した(この時間は気象条件に依存)。終戦直後にMckay,(1945)が、実際に風船爆弾が日本からアメリカ西岸まで到達するに要した時間を算出したところ、72~120時間であることが明らかになっている。荒川の予測は十分に実用できる結果であった。   一般的な経路を図(Fig.25, Mikeshより)に示す。上段は経路に沿った鉛直面の経路を、下図は水平面の経路を描いたものである。蛇行する強い西風にのって約3日間で北米大陸上空に到達する状況が示されている。     荒川は、大石の観測結果のほかにも当時までにヨーロッパなどで観測された上層の風の場の特徴を参考にした。それらは、館野高層気象台が開設される約20年前(1902年)に、ティスラン・ド・ボールが世界で初めて行ったパイロットバルーンによる観測結果などだった。ティスラン・ド・ボールといえば、世界で最初の高層気象観測を行い成層圏を発見したフランスの気象学者である。成層圏の発見以降、上層の風に関する情報は非常に乏しかったと考えられる。   はたして、日本軍は大石が世界に先んじて実態を明らかにした強い西風を利用し、1944年11月から1945年4月までの期間に集中して、約9000個の風船爆弾を北米大陸へ向けて放球した。この季節を過ぎて春になると、そもそも強風軸が南偏すると同時に移動性高気圧や低気圧の周辺の気流に取り込まれるケースが増え、風船の経路を推定することが困難になる。言い換えると、戦争参加国以外の地域へ到達することは避けなければならない。これは風船爆弾計画にとっては極めて厳しい制約であり、よって4月上旬ころに終了することを前提とした作戦だった。   もういちど図を見てみよう。影の付いた時間帯は夜を示す。日本列島の太平洋岸から放たれた気球は流れに乗って、微妙なタイミングでバラスト(※)を落下させながら飛行高度を保ち、約3日で北米大陸へ到達する様子が読み取れる。実際に、どのような方法でバラスト投下の制御を行ったのだろうか。この装置に代表されるような、風船を目的地へ飛ばす技術的な部分についても、興味が湧く。この点について、最近、一冊の本を見つけた。櫻井誠子著「風船爆弾秘話」である。陸軍登戸研究所の記録を丹念に追跡し、バラスト投下制御装置の詳細が明かされている。   結局、約9000個の風船爆弾が短期間に放球され、そのうち北米大陸に到達した数は、アメリカとカナダを合わせ約300個だった。すなわち放球数のわずか3%であった。(つづく)   ※バラスト:浮力を制御するためのおもり   参考文献 Mikesh, R., 1973: Japan’s World War II Balloon Bomb Attacks on North America. Smithsonian Annals of Flight Series, Vol. 9, Smithsonian Institution Press, 85 pp. McKay, H.W., 1945: Japanese Paper Balloons. The Engineering Journal, Sept., 563-567. 櫻井誠子,2007:風船爆弾秘話.光人社,271p.