大石和三郎とジェット気流の観測 【5】 | 2016-10-11 |
| ●NPO法人シティ・ウォッチ・スクエア理事長 林 陽生 | 強風層の発現は突発現象か? | 大石が1924年(大正13年)12月2日10時(地方時)に実施した観測の結果、地上にごく近い高度1km付近では東風で風速は秒速数mだが、それより上層では西風に転じて風速が徐々に増大し、対流圏の中層にあたる高度5kmで秒速30m、高度9km付近で秒速70m以上の強風となることが明らかになった。彼は風の鉛直分布図を描きながら、さぞ驚いたことだろう。この現象がはたして観測時のみに発生した現象なのか定常的な現象なのか、大石は自問したに違いない。   この疑問に対する答えが明らかになるまでには、そう長い時間は要しなかった。判断の根拠となる解析成果は、1926年に発表された。大石は上層観測結果を季節ごとに重ね合わせた図を作成したが、解析のもとになったのは1923年3月から1925年2月までに実施した1288回の観測の結果である。数多くのデータを使い、季節ごとの平均風速と風向の鉛直分布図を描くことができた。結果を以下の図(大石、1926)に示す。  
  対流圏の上限高度付近に現れた西風には、次の特徴が認められた。冬季の風速は他の季節と比べて非常に強く、高度10kmで約70m/sに達することが明らかになった。これに対して夏季は風速が弱まる。春季と秋季は両者の中程度の風速となった。冬期に現れる強風は、一般に論じられていたような変則的かつ短命な現象ではなく、安定して出現することが示唆されたのである。それも、日本の上空で。   強い西風は季節性のある現象であることが明らかになり、大石はさらに興奮したことだろう。こうして、これまで知られていない大規模な大気の流れ、つまり大気大循環の側面がとらえられたのである。大石は、この強風に関する一連の研究をエスペラント語で書いた。なるほど、図にある春・夏・秋・冬はエスペラント語で記述されている。日本エスペラント学会の情報によると、大石は1930~1944年のあいだ第2代の理事長を勤めたことが示されている。彼は、1926年~1944年の間に19編の高層気象に関する論文を発表したが、そのすべてをエスペラント語で書いた。   なぜ、彼はエスペラント語で論文を書いたのだろうか。その理由は、自らの業績が理想の社会で開花することを夢に見ていたからと考えられる。しかし、当時一般的であったドイツ語や英語で発表しなかったことが、実質的に彼の業績を国際的な学会の目から遠ざける結果となった。このことは、日本国内でも、大石の一連の研究成果を理学的な客観性をもって理解することを難しくさせたと考えられる。その結果、大石をしてジェット気流の発見者と認めることはなかった。言い換えれば、ジェット気流という用語は、まだ生まれていなかった。   約20年後、第2次世界大戦中、彼が観測した「強い西風」を利用して、風船爆弾によるアメリカ本土爆撃の作戦が実施される。またその直後には、日本を爆撃するために、太平洋諸島から離陸して西に向かい飛行するB29が強い「ジェット気流」に遭遇する。この発見を契機に、終戦直後の時期にアメリカの気象学者ロスビーらが1947年~1948年に論文をまとめ、国際的な学術の場で「ジェット気流」の発見を報告した。   第2次世界大戦の末期に、大石が観測した「強い西風」の存在は極秘情報の一つとして取り扱われ、荒川秀俊らによって解析が加えられて、風船爆弾の作戦が実行された。この経緯については、別の機会にのべることにする。風船爆弾の作戦は、日本軍が至上の使命としていたアメリカ本土空襲を可能にしたが、実際の戦果は極めて小さかった。大石が死去したのは1950年(昭和25年)。想像するに、自ら努力して追い求めた現象が実戦の道具とされたことについて、晩年は相当複雑な想いだったに違いない。(つづく)   参考資料 大石和三郎,1926:館野上空に於ける平均風.高層気象台彙報, (2),1-22.  
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コラム:クズ虫――悩ましい立場のちがい(むしたちの日曜日110) |
久しぶりにレモンの木を見た。観光施設の片隅で、実をいくつか、ぶら下げていた。
――へえ、珍しいなあ。
と思った瞬間、その葉にアゲハチョウの幼虫がいるのに気づいた。しかも顔を近づけただけで、にゅっと角を出す。
臭角だ。その名にた... |
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